あの日々が蘇ったかのような、浮ついた暖かさとときめきと。 なけなしの罪悪感と戸惑いと。 不相応な期待と。 シュガーレス→05 融けて、甘いチョコレートが咽喉にこびり付く。 その日は偶然にか、故意にか、雲ひとつ無い空には欠け始めた月がぽっかり浮かんでいた。 研究所の玄関ホールは薄暗く、疲れ切った様子の事務の女の子がソファでうたた寝をしているだけで、他には誰もいなかった。 板張りの床が軋む音を聞きながら、感傷的な気持ちを切り替えようと、汚れた靴の爪先を見た。 「今日は楽しかったよ。こんな風に人と話をしたのはいつ以来だろう」 後ろを歩くルーピンの声に足が止まる。 小さく息を吸って吐いて、もう一度吸った。 右手でガラス戸の取っ手を押して、玄関を開ける。 「楽しんでもらえたなら幸いです、ミスター・ルーピン。これからも、そうならば良いのですけど」 「大丈夫だよ」 躊躇いもなくそう言いながら、ルーピンは私の横を通り過ぎて外へ出る。 暮れたばかりの空から、静かに夜の風の匂いがした。 「それでは、次の満月の前の日にまた」 そう言うと、ルーピンは優しく笑った。 月の光りに鳶色の髪が透けて綺麗だ。 思わず触れてしまいそうになる。 「ねぇ、。いい店を知っているんだけど、これから飲みに行かないかな?」 ルーピンはないしょ話をするように、少し声を落としてそう言った。 突然のことに驚いて頭が混乱する。 「それはっ、あの……どういう意味?」 言いながら、耳が熱くなるのが分かって恥ずかしかった。 十代の少女じゃあるまいし、なんてことだろう。 「誘ってるんだ。、駄目かな?」 ルーピンは私が赤くなっていることに気付いて、嬉しそうに笑いを堪えながらそう言った。 あまりにも当然という様に言うので、私はさらに顔が熱くなってしまった。 久しぶりにドキドキして、それこそ心臓がひっくり返るくらいで。 嬉しかったのに。 見上げれば下弦の月が。 私がルーピンに、そんな想いを抱く権利など無いのだと思い出させてくれた。 「ごめんなさい。ミスター・ルーピン」 「やっぱり駄目か。お酒はやめるんだっけ?こっちこそ、悪かったね、」 ルーピンはそう言った後、少し間を空けて笑ったまま、また続けた。 「おかしな期待をしてしまったよ。学生時代の話なんかしたからかな」 笑った顔を崩さないで、それでもその顔は悲しそうに見えて。 咽喉の奥に熱いものが込み上げてきた。 ボロボロのローブの裾を掴んで、「やっぱり行く」と言ってしまいそうになった。 「」 開いた口から言葉が出ない内に、ルーピンが静かに名前を呼ぶ。 その顔からは悲しみは消えて、一点の曇りも無い笑顔だった。 「、手を出して」 声は嬉しそうに弾んでいて、私は言われた通りに右手を差し出した。 ルーピンはその手を自分の両手で包んだ。 その手は温かくて、私はまた照れてしまったけど、不思議とさっきのように顔が赤くなったりはしなかった。 そのかわり、ルーピンの手の熱が伝わってきたかのように、体がぽかぽかと温かくなった。 「あげるよ。それじゃあ、また」 ルーピンは手を離してそう言うと、真っ暗な夕闇に紛れて行ってしまった。 指先はまだ温かく、てのひらには小さなチョコレートがあった。 包みを開けて口に入れると、チョコは静かにゆっくりと融けていった。 甘いあまいそれが咽喉にこびり付いて離れなくて。 冷たい風が頬を掠めて。 それでも、涙は流れてこなかった。 ルーピンにメルティーキッスを食べさせたい。 <2004.11.14>