午前11時の鈍行列車。ボックス席の斜め向かいには、不二周助がいた。
鈍行列車、逃避行。
平日の正午前、鈍行列車は人も疎らで、ガタンゴトンと、柔らかい日差しだけを乗せて走っている。
不二は、赤茶色の日に焼けたシートに腰掛けて、本を読んでいる。
ぺらりとページを捲る音が、ほぼ一定の間隔で繰り返される。
その傍らで、私は国語の教科書を見ながら、、源氏物語の現代語訳をノートに書き写している。
「不二はどうして、こんな電車に乗ったの?」
シャープペンシルを持った手を、一旦休めて聞いた。
不二はいつも通りの笑顔を本から上げて、
「昨日、裕太が家に忘れ物をしてね。無いと困るだろうから朝一で寮まで届けに行ったんだ。そのまま、学校に行くつもりだったんだけど、駅でがこの電車に乗るのを見て、気になってね。付いて来ちゃったよ」と、言った。
不二の笑顔に日が射して綺麗だった。
「明日から中間テストなのに、いいの?」
私は何かを打ち破りたくて、この電車に乗ったのに、テスト勉強なんかをしてる。
結局、私は私だ。
「うん。折角、学校サボったんだし……そんなに必死になってまで、良い点とろうと思わないしね」
今度は本を読みながら答えた。
陰になって顔がよく見えない。
私はこの、不二周助という男になりたいと思った。
けど、何だか厭になって、教科書のページを前へ捲った。
「雨ニモマケズ 風ニモマケズ」
日本人なら、必ず一度は聞いたことがあるだろう詩を、私は声に出して読んだ。
不二は聞いているのかいないのか、よく分からない。
「欲はなく 決して怒らず いつも静かに笑っている」
よく知られている冒頭部分を読み終え、斜め向かいの席へ目を向ける。
今度は不二はしっかりとこちらを見ていた。
「似てるね、不二に」
「そうかな?」
「うん、でも」
不二は相変わらずにこにこ笑っていた。
ただ、いつも笑っているから、その笑顔にどんな意味があるのかは解らない。
「わたしは、こんなものには、なりたくない」
不二はほんの僅か、首を傾けて、少し長い髪が揺れた。
「欲のないものには、なりたくない。そんなの生きていても詰まらないから」
私がそういうと、不二は持っていた本を閉じて、笑った。
心なしか、悲しそうに見えた。
「僕は欲がないように見える?」
「だって、テストで良い点をとらなくてもいい。テニスの試合で勝たなくてもいい。だったら……」
「あははっ!」
私の言葉は、不二の笑い声に阻まれた。
不二はカラリと晴れた、昼下がりの空のような笑顔で私を見た。
「僕が、この電車に乗った、本当の理由はね」
鈍行列車がきついカーブを曲がって、太陽の位置が変わる。
眩しくて、目を閉じずにはいられなかった。
「と、話しをしたかったからだよ」
午前11時の鈍行列車。ボックス席の斜め向かいには、不二周助がいた。
彼は静かに笑っていた。
不二、難しい。
ちょっと、なんとも言いがたいかんじになってしまった。
<2004.4.18> |